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2019年後期スタディでは、ユングの論文「心の本質についての理論的考察」(1954年)を読み進めました。
本論文はタイトル通り、ユングが「心とはどのようなものであるか」について詳細に論じたもので、元型理論を中心として心の構造とダイナミクスについて考察がなされます。さらには心と物質との関係や、いわゆる共時性理論についても理論的観点から語られます。後期ユングの思想のエッセンスであり、「これを読まずにユングの理論については語れない」と言って差し支えないぐらい最重要な論文です。邦訳テキストをベースに、適宜ドイツ語原文と英文とを参照して読み進めました。
テキスト:「心の本質についての理論的考察」(1954年)
C.G.ユング『元型論 <増補改訂版>』、林道義訳、紀伊國屋書店、1999.5 所収
第1回 9月5日(木) p.290-309 A-B-C
ユングはまず、近代心理学の歴史の中で無意識仮説がなかなか受け入れられなかったことを取り上げ、その理由を、無意識仮説が困難な問題をもたらすことに対する恐れだったと理解します。人間精神の限界を理解しない思い上がりがドイツにおいて無意識の侵入につながり、ナチスの破局を生み出したとユングは見ます。
そしてユングは、心には分裂可能性があることを指摘します。意識から抑圧された、あるいは意識に理解できないような心的内容は、意識からは切り離されるものの、シンボルを通して意識への影響力を持ちます。その上で、感覚機能の「閾」概念からの類推として、意識にも知覚可能な識閾があり、その境界には「類心的 psychoid」と呼ばれるような過程があるのではないか、という仮説が示されます。
第2回 10月3日(木) p.309-330 D-E-F
これらの章では、前回示された「類心的」概念を受けるような形で、心とはいったい何であり、何と区別される存在であるか、意識と無意識とは心全体の中でどのように絡み合っているかについての考察がなされます。ユング心理学全体の基礎とも言えるような、重要なものの見方が示されていくところになります。
ユングはまず、こころや生命は、基盤としての有機的過程に依存する一方で、物理学的な自然法則からは導けない独自の法則を持つとします。その上で、「心的なもの」について「本能とその強制力から機能を解放したもの」と規定し、心の領域内で機能が意志の作用によって方向を変えられ修正されることを指摘します。
心がこうした性質を持つがゆえに、無意識内容が持つ自動性と強迫性は、意識化によって取り除きうることができます。主体を囚われの服従状態にするような、無意識の元型的・神話的性質とヌミノースな力も、意識内では修正可能で個人主義的になります。この意識化の試みこそが、ユングが心理療法において意図することに他なりません。意志には選択の自由があり、機能を修正するために己自身を意識するという上位の判断を必要とします。心は盲目的な本能と、意志・自由選択との間の葛藤です。
また、意識には様々な段階があり、無意識が優勢な場合も、意識が支配権を持つ場合もあるとします。選択的行動も、一方では意識の内部で、他方では無意識的になされます。自我意識は、無意識内にあるたくさんの小さな明かりによって囲まれたものであって、完全に統合された全体ではないとユングは言います。
第3回 11月7日(木) p.330-349 G
G「振舞いのパターンと元型」の章では、「元型」概念を軸に心についての考察が行われ、精神-本能の間で揺れ動く意識のあり方が示されていきます。
ユングは、本能と元型のどちらもが「振舞いのパターン」を持ち、心の全領域に方向づけを与えているとします。神話や宗教、△△主義の本質的内容は全て元型的なものであり、こうした元型の現れは、精神(ガイスト Geist)的と呼ぶべきヌミノースで強迫的な性格を持っています。そして心的過程とは精神と本能の間のエネルギー調整のことであり、意識のあり方は本能と精神の間でスライドしているとします。この意識の持つ一面性は「影」の知覚によって解消しますが、元型や本能との対決は第一級の倫理的問題です。自動的で強迫的な性格を持つ無意識の機能は、意識によって抑制されてはじめて秩序だった適応ができます。
本能は一方で生理的な駆動力として体験され、他方ではイメージとして意識に入りこんでヌミノースな働きを繰り広げます。生理的激情と精神的激情は敵対しながらも似通っており、ときには一瞬にして一方が他方へと転換します。元型は本能力の形式原理です。
さらにユングは、具象的な元型的イメージと、それを生み出す元型そのものを概念的に分け、元型そのものは心的領域の彼方にあるものとします。そして心と物質の両者を、ともに超越的動因に依存する同一の事柄の異なる二つの面であるとし、共時性現象をこれによって理解してゆきます。
第4回 12月5日(木) p.349-367 H-あとがき
ここまでの本論では、本能的なものと精神-元型的なものという、ともに自動性・強迫性を持った二つの存在の間の対立と類縁性が述べられてきました。自我意識はこの二者の対立の中で揺れ動きながら、この二者に由来する無意識内容の自動性と強迫性を、意識化を通して抑制することで適応をもたらすことになります。
これに対して、本論のまとめとなる「H 一般的考察と展望」では、社会的なものとの葛藤の問題が示されます。内的な衝動である本能と精神の二者と、外的な強制力である社会的-集合意識的なものとの間にも対立と葛藤は存在していて、自我はこれにも対応しなければならないことになります。この対立は、社会道徳と内的倫理との葛藤と言い換えることもできるでしょう。
自我意識は、①集合的・社会的意識、②無意識的・集合的調整因すなわち元型、という二つの要素に依存していて、後者の②はさらに二つの範疇、⑴ 本能領域(自然な衝動)、⑵ 元型的領域(普遍的観念として意識の中に現れる調整因)に分かれます。社会において一般的な真理として認められている①の集合的意識と、②の集合的無意識とは内容において対立があり、ゆえに無意識内容は排除されがちです。両者の対立の中に主体は立たされていますが、たいてい勝つのは①の集合的意識であるとユングは言います。
そもそも自我の本来的な役割は、対立の中央にいて調整を行うことなので、対立の一方に偏れば精神的発達は止まります。個人的意識が集合的意識に同一化すると、無意識内容に対する抑圧は狂信的になってゆき、△△主義の虜になった大衆的人間となってしまいます。集合的意識との破滅的な同一化は、意識自身の影および元型についての認識によって避けなくてはならない。そうでなければ無防備な個人は大衆心理に身を委ね、社会的・国民的自我肥大の手に落ちることになります。
他方で、個人が集合的意識から独立すると、今度は自分の意識を過大に評価するような主観的自我肥大の危険も生じます。心は平衡を失うと自然秩序を妨害するだけでなく、心自身の創造的活動を破壊してしまう、とユングは述べます。
ユングによれば、心は自然法則的な宇宙に介入し撹乱するもので、心の世界への影響は心の現実化です。人格の無意識部分が意識化されると、自我人格に原理的な変化がもたらされます。このとき自我が無意識内容をうまく同化できないと精神病理学的な状態になります。うまく無意識内容を同化した際には、自我は中心的支配的地位から追いやられて「自己」に従うようになりますが、この時にも自我が自己と同一視される危険性があり、そうなると個性化は単なる自我中心主義や自己愛になるとユングは指摘します。
そしてユングは、最後となる「あとがき」の章にて、改めて共時性現象について言及します。時間と空間は心の中では相対的であって、主体が無意識状態の中に移されると共時的現象が起きるが、無意識内容が意識の中に入り込むと共時的な現れ方はしなくなる。この共時性現象によって、元型が心的でない側面を持つことが示されるとユングは考えています。
【開催時の通知】
タイトル:「ユング『心の本質についての理論的考察』を読む」(全4回)
2019年前期『空飛ぶ円盤』スタディ、特別回「三島由紀夫『美しい星』を読む」、夏期特別企画「ユング用語集を作る」に引き続きまして、2019年後期スタディでは、ユングの論文「心の本質についての理論的考察」(1954年)を読み進めます。
本論文はタイトル通り、ユングが「心とはどのようなものであるか」について
詳細に論じたもので、元型理論を中心として心の構造とダイナミクスについて考
察がなされます。さらには心と物質との関係や、いわゆる共時性理論についても
理論的観点から語られます。後期ユングの思想のエッセンスであり、「これを読
まずにユングの理論については語れない」と言って差し支えないぐらい最重要な
論文です。
テキスト:「心の本質についての理論的考察」(1954年)
C.G.ユング『元型論 <増補改訂版>』、林道義訳、紀伊國屋書店、1999.5 所収
■日程
第1回 9月5日(木) p.290-309 A-B-C
第2回 10月3日(木) p.309-330 D-E-F
第3回 11月7日(木) p.330-349 G
第4回 12月5日(木) p.349-367 H-あとがき
■時間:19:00~21:00 (開場は18:45)
テキストを持っていない、読んでいない方でも、資料を配布しますので参加可能です。また、開催日は原則として第1木曜日ですが、各種事情により急な変更をする場合がありますので、よろしくご確認の上ご参加ください。
進行役:白田信重、山口正男、岩田明子(ユング心理学研究会)
■会場: nakano f(ナカノエフ) 中野駅北口徒歩5 分、裏面地図参照
※スタディの会場は、上期途中から変更になっています。ご注意ください。
■会費:1500円 ※参加費は当日受付にてお支払いください。
■問い合わせ先: jungtokyo_info@yahoo.co.jp(研究会事務局)
※資料準備の都合等から、事前の参加申し込みが必要です。
※セミナー時に撮影した写真を当研究会のホームページやFacebook等のソーシャルメディアに公開する場合があります。あらかじめご了承ください。
第1回 9月5日(木) p.290-309 A-B-C
第2回 10月3日(木) p.309-330 D-E-F
去る9月5日、「心の本質についての理論的考察」(1954年)を読み進める今期スタディの第一回が行われ、最初の三章となるA-B-Cを取り上げました。林道義訳の『元型論 <増補改訂版>』(紀伊國屋書店、1999.5)所収の邦訳テキストをベースに、適宜ドイツ語原文と英文とを参照して読み進めました。
ユングはまず、近代心理学の歴史の中で無意識仮説がなかなか受け入れられなかったことを取り上げ、その理由を、無意識仮説が困難な問題をもたらすことに対する恐れだったと理解します。人間精神の限界を理解しない思い上がりがドイツにおいて無意識の侵入につながり、ナチスの破局を生み出したとユングは見ま
す。
そしてユングは、心には分裂可能性があることを指摘します。意識から抑圧された、あるいは意識に理解できないような心的内容は、意識からは切り離されるものの、シンボルを通して意識への影響力を持ちます。その上で、感覚機能の「閾」概念からの類推として、意識にも知覚可能な識閾があり、その境界には
「類心的 psychoid」と呼ばれるような過程があるのではないか、という仮説が示されます。
次回10月スタディでは、次の三章D-E-Fを読み進めます。そこではこの「類心的」概念を受けるような形で、心とはいったい何であり、何と区別される存在であるか、意識と無意識とは心全体の中でどのように絡み合っているかについての考察がなされます。ユング心理学全体の基礎とも言えるような、重要なものの見
方が示されていくところになります。
第3回 11月7日(木) p.330-349 G
前回10月7日のスタディでは、D-E-Fの三章を読み進めました。
ユングはまず、こころや生命は、基盤としての有機的過程に依存する一方で、物理学的な自然法則からは導けない独自の法則を持つとします。その上で、「心的なもの」について「本能とその強制力から機能を解放したもの」と規定し、心の領域内で機能が意志の作用によって方向を変えられ修正されることを指摘します。
心がこうした性質を持つがゆえに、無意識内容が持つ自動性と強迫性は、意識化によって取り除きうることができます。主体を囚われの服従状態にするような、無意識の元型的・神話的性質とヌミノースな力も、意識内では修正可能で個人主義的になります。この意識化の試みこそが、ユングが心理療法において意図することに他なりません。意志には選択の自由があり、機能を修正するために己自身を意識するという上位の判断を必要とします。心は盲目的な本能と、意志・自由選択との間の葛藤です。
また、意識には様々な段階があり、無意識が優勢な場合も、意識が支配権を持つ場合もあるとします。選択的行動も、一方では意識の内部で、他方では無意識的になされます。自我意識は、無意識内にあるたくさんの小さな明かりによって囲まれたものであって、完全に統合された全体ではないとユングは言います。
第三回となる次回11月スタディでは、G「振舞いのパターンと元型」を読み進めます。「元型」概念を軸に心についての考察が行われ、精神-本能の間で揺れ動く意識のあり方が示されていきます。本論文の中核となる最も重要な箇所になります。
第4回 12月5日(木) p.349-367 H-あとがき
前回11月7日のスタディでは「G 振舞いのパターンと元型」を読み進めました。
まずユングは、本能と元型のどちらもが「振舞いのパターン」を持ち、心の全領域に方向づけを与えているとします。神話や宗教、△△主義の本質的内容は全て元型的なものであり、こうした元型の現れは、精神(ガイスト Geist)的と呼ぶべきヌミノースで強迫的な性格を持っています。そして心的過程とは精神と本能の間のエネルギー調整のことであり、意識のあり方は本能と精神の間でスライドしているとします。この意識の持つ一面性は「影」の知覚によって解消しますが、元型や本能との対決は第一級の倫理的問題です。自動的で強迫的な性格を持つ無意識の機能は、意識によって抑制されてはじめて秩序だった適応ができます。
本能は一方で生理的な駆動力として体験され、他方ではイメージとして意識に入りこんでヌミノースな働きを繰り広げます。生理的激情と精神的激情は敵対しながらも似通っており、ときには一瞬にして一方が他方へと転換します。元型は本能力の形式原理です。
さらにユングは、具象的な元型的イメージと、それを生み出す元型そのものを概念的に分け、元型そのものは心的領域の彼方にあるものとします。そして心と物質の両者を、ともに超越的動因に依存する同一の事柄の異なる二つの面であるとし、共時性現象をこれによって理解してゆきます。
最終回となる次回12月スタディでは、「H 一般的考察と展望」および「あとがき」を読み進めます。ユングがこの論考を通して言いたかったことはいったい何であったのか、それを改めて整理しつつ読み終えていきたいと思います。