■ 講読テキスト:
C.G.ユング『分析心理学セミナー』
横山博監訳、大塚紳一郎・河合麻衣子・小林泰斗訳、みすず書房、2019.10
・ 適宜、以下の英語原文、および別バージョンの邦訳も参照
C. G. Jung, Introduction to Jungian Psychology:
Notes of the Seminar on Analytical Psychology Given in 1925,
Princeton Univ Pr; Revised (2011.12)
C.G.ユング 『分析心理学セミナー1925』
河合俊雄監訳、猪股剛・小木曽由佳・宮澤淳滋・鹿野友章訳、創元社、2019.6
■ 開催日:原則として、毎月第一木曜日(1、8月は休止) 19:00〜21:00
その他、特別企画あり
■ 開催方法:形状開催とオンライン開催を併用
会場 nakano f(ナカノエフ) 東京都中野区中野5-46-10 J'sコート1・2階
オンライン開催 zoomミーティングルーム形式
■ 案内役:白田信重、岩田明子(ユング心理学研究会)
司会進行:海野裕美子(ユング心理学研究会) 資料協力:山口正男
第1回:2月6日(木)済
第2回:3月5日(木)★休止★
第2回:4月2日(木)★休止★
第2回:5月14日(木)【オンライン開催】 済
第3回:6月4日(木)【会場とオンラインの併用開催】 済
第4回:7月16日(木)【オンライン開催】 済
特別企画:8月20日(木)【オンライン開催】 済
第5回:9月3日(木)【オンライン開催】済
第6回:10月1日(木) 【オンライン開催】+会場開催 済
第7回:11月5日(木) ナカノエフ会場・zoom配信 並行開催 済
第8回: 12月3日(木)ナカノエフ会場・zoom配信 並行開催予定 済
特別企画:12月17日(木) 忘年会企画(zoom開催のみ、参加無料) 済
前半:S.シュピールライン「生成の原因としての破壊」を読む
後半:交流会
新年会企画:1月14日(木)(zoom開催のみ) 済
スタディ補完企画:ユング「心的エネルギー論」概説
第9回:2月4日(木)【オンライン開催】 済
第10回:3月4日(木)【オンライン開催】 済
第11回:4月1日(木)【オンライン開催】済
第12回:5月6日(木)【オンライン開催】済
第13回:6月3日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45)【オンライン開催】 済
第14回:7月1日(木)最終回 【オンライン開催】 済
2月6日【第1回】
今期スタディでは、ユングによる英語でのセミナーの記録『分析心理学セミナー』(1925)を購読テキストとして取り上げます。初回スタディでは、セミナーの第1-2回を読み進めました。
セミナーは、ユングの博士論文でも取り上げられている15歳半の霊媒能力者の少女の事例から始まります。ショーペンハウアーやハルトマンの哲学の助けも借り、ユングは無意識について、ある種の鋳型の中に流れ込んでイメージ化するもの、パーソナリティとして現れる傾向を持つものと考えます。交霊会の中で少女に取り憑いて語りをする霊とは、彼女の無意識がパーソナリティ化して現れたもの、彼女が人生の行き詰まりから抜け出すために生み出したファンタジーでした。彼女は交霊会の中止とともに、自身の無意識の中で発展させてきた優れた性格を、今度は現実の中で生きられるようになっていきます。
この事例の少女は、実はユングの母方の従姉妹ヘレーネ・プライスヴェルクであり、現在では、ユングがここで語ってないような事実もわかってきています。その辺りの事情を紹介した、種村季弘「影の女ヘレーネ」(現代思想別冊・総特集『ユング』所収)などを参考に、ユング思想の原点となるこの事例について様々に話をしていきました。
5月14日【第2回】
6月3日【第3回】
6月スタディでは、テキストの第5-6回を読み進めました。
ここでユングは、1913年のフロイトとの決別以降において、自身がいかに夢や自発的イメージと関わり、無意識とコミュニケーションを取っていったかについて述べてゆきます。そしてそこでの成果が、ユング心理学の体系が一通りの完成を見せた『タイプ論』(1921)にどのように繋がっていったかが示されることになります。
ユングは自身の著作『リビドーの変容と象徴』について、一見すると客観的に「ミラーのファンタジー」を解釈する内容のようでいて、実は自分自身の中にあるファンタジー的な思考の形式をミラーの素材に投影していた、とします。ユングは「ミラーのファンタジー」を通して、自身の中にあるミラー的側面を同化することができるようになっていきました。ユングという人間にとっては、そうしたファンタジー的側面は劣等機能に関わる部分であったので、他者の症例を扱うという形をとることで初めて、これに触れることができたのです。
ユングは続いて、無意識を探求する際におけるファンタジーの扱い方について説明をします。抵抗を克服してファンタジーにとどまり続けていると、集合的無意識に由来する自律的コンプレックスが現れてきますが、往々にして意識は無意識の圧倒的な力に巻き込まれ翻弄されてしまいます。そうならないための方法として、ユングは、無意識的現象をパーソナリティ化させて対話をすることで、無意識的現象から力を剥ぎ取る技法を挙げていきます。こうした際に現れる人物像についてのアイデアが、ユング心理学におけるアニマ・アニムス概念などに繋がっていくことになります。
ユングはさらに、彼の死後に『赤の書』として公刊されることになる、彼自身のファンタジーについて述べていきました。「ミラーのファンタジー」を通した後、ユングは、いよいよ自分自身の中に現れるイメージと直に向かい合っていく作業を据えることになります。
ユングはまず、「地下に向かって穴を掘る」というイメージの助けを借りて、無意識の中に入っていくことになります。ユングはヴィジョン内において、地下の洞窟の中、光り輝く水晶で塞がれた穴から、金髪男性の英雄が水に流されるイメージを見ます。ここで示された英雄の殺害のモチーフは、その後すぐにユングが見た、英雄ジークフリートを殺す夢につながります。ユングはこれを、自分の英雄的理想を犠牲にしたイメージと解釈し、自身の劣等機能を活性化するのに必要なエネルギーを優越機能を犠牲にして得たと捉えました。このヴィジョンの続きと展開については、テキストの今後において順に語られていくことになります。
7月16日【第4回】
7月スタディでは、前半にこれまでのまとめを行い、後半でテキストの第7回を読み進めました。ここではユングの芸術論を中心に読むことができました。
ユングによれば、芸術家は、時代の構えの変化に順応しており、同じ時代の一般の人々の傾向に対してバランスを維持しようとします。芸術は時代に対しての補償なのです。
現代は科学を通して価値が外在化されている時代なので、これに対するモダンアートは、逆に外的客体を脱価値化して、関心を主体すなわち内的客体へと向けようと試みます。ユングによれば、この現代芸術の試みは、分析が行なっていることと同じものですが、分析の場合はこれをあくまで意識的に行おうとする点で異なります。
こうした芸術家たちの主体への関心は、集合的な素材が現れるという点において、必ずしも主観的ではなく、むしろ客観的であることもある、とユングは言います。個人の主観のなかに、個人を超えた普遍性が現れる場合もある。内的客体に向かい合うことで、人類に共通な元型的なものに至ると、それは普遍的で客観的なものになりうるわけです。
また、深刻な暴力性の時期は、それに先行する芸術の感傷性によって予測可能であり、芸術家は暴力性を覆い隠すために感傷性を利用する、というユングの指摘は重要です。この問題の典型例は、ナチスによる「頽廃芸術」の追放だと思いますが、ユングのセミナーでのこの指摘は1925年のことで、ナチスが政権を取る前のことです。現代日本においても、こうした危険な傾向は見られていないでしょうか。
テキストの最後部分では、ユング自身が見たヴィジョンの解釈についても少し語られます。『赤の書』第一の書の冒頭部分に描かれている、英雄ジークフリートを殺害する夢は、ユング自身の優越機能を退位させることを意味しています。優越機能の退位が行われた後にはパーソナリティの別の側面が現れてくる、とユングは言いますが、これについては後の回にて詳しく論じられていくことになります。
8月20日【特別企画】ユングスタディ・オンライン納涼会
8月のスタディは例年通りのお休みですが、今月は別途に、これまで参加された方々にて、zoom上での納涼企画を行いました。
前半では、ここまでの『分析心理学セミナー』スタディの内容について、疑問点や感想などをシェアしていきました。後半では、当会の常連で俳優の近童弐吉さんに、星新一のショートショート小説「箱」を読演していただきまして、それについての感想や考えたことなどをシェアしていきました。
9月3日【第5回】
9月スタディでは、テキストの第8回を読み進めました。
まずは前からの続きとして、ユングの言う主観・客観の概念についての説明から始まります。その人の主観の中に現れるものでも、集合的性質をもって主体の精神と相対するものは内的客体とみなすべきだ、とユングは言います。この内的客体は、同時に、その人の先入観を作り出す主体的要因でもあります。
続いて、『タイプ論』における内向・外向の概念についての説明となります。意識的には、外向タイプの人は外的客体との関係に価値を置き、内的客体との関係を恐れます。逆に内向タイプの人は、内的客体との関係に価値を置き、外的客体との関係を恐れます。それぞれのタイプが逆の客体を恐れる理由は、実は当人の無意識過程において意識的タイプと反対の過程が生じていて、それが意識的には重要視していない客体に、実際以上に「命を吹き込みすぎ」て魔術的に当人を脅かすからに他なりません。
またユングは、これも前回に引き続き、後に『赤の書』にまとめられることになる自らが経験した無意識的ヴィジョンについて語っていきます。英雄ジークフリートの殺害は、ユング自身が適応の道具としている優越機能を殺すことを意味していて、これがユング自身の無意識と結びついている劣等機能を活性化させることになったとします。分化した機能は二律背反にまで達しなければならない、というユングの指摘も示唆的です。
そしてユングは最後に、後にアニマや老賢者の元型の雛形となった、エリヤとサロメの人物ヴィジョンに言及します。老いた男性と若い女性の組み合わせのイメージは、普遍的にみられるモチーフであることが指摘されます。
10月1日【第6回】
前回10月ユングスタディでは、テキストの第9回を読み進めました。
ユングはまず、無意識の素材の意識への同化を妨げる二つの態度として、美的態度、知的態度の二つを挙げます。これはどちらも、無意識の素材を一面的に受け入れるものです。逆に、同化に必要な二つの態度としては、意識性、生への完全な関与(モラルの問題)が挙げられます。意識的に、かつ自分の生きる問題として全面的に受け入れること、が重要とされます。
またユングは、「劣等機能を育てることが、今日では生きるということ」とも指摘します。これは効率性を求める時代の集合的理想に反することですが、人間が自己実現をする上では重要です。劣等機能を活性化させるエネルギーは、当人が社会への適応に利用している優越機能から取り上げなくてはなりません。
続いてユングはタイプ論の観点から、劣等機能の扱い方に関する技法的な話をします。優越機能からは直に劣等機能に達することはできないので、必ず補助機能を経なければならない。分析では、優越機能と劣等機能との対立を直接には扱わないで、補助機能の間で生じる予備的葛藤を通じてアプローチする、といった方法が語られました。
ユングは最後に、人間の中にある「対立するものどうしの組み合わせ」について触れ、その例として、リビドーの中にある生の本能と死の本能を挙げます。ユングは生死とはメタファーであって、対立を示すのであれば他の用語でもいい、対立こそがリビドーの運動を生じさせるとします。これには、ユングなりのフロイトへの対抗意識が見られるでしょう。このセミナーの5年前に出たフロイトの「快原則の彼岸」においては、生の欲動と死の欲動は、より一般的なもののメタファーではなく、生物学的根拠を持つ根源的なものであるとされていました。
11月5日【第7回】
『分析心理学セミナー』第10回のテキストでは、ほぼ全部が「対立するものどうしの組み合わせ the pairs of opposites」についての話に充てられています。
まずユングは、「対立するものどうしの組み合わせ」を古来からの観念であるとして、中国の易経、道(タオ)の陰陽思想、ウパニシャッド哲学、ヘラクレイトスを順に取り上げ、次いで最近の例としてフロイトを挙げていきます。これらの思想は全て、対立する二つのものにおいて、一方の原理が強まった時には反対の原理は弱まるが、しかし次第にこれが逆転していく、という過程を扱っています。
ユングはこうした対立するものどうしの間の反転が繰り返される過程を、ヘラクレイトスの用語を借りて「エナンティオドロミア」と呼び、自身の心理学の大きな原理として位置付けています。
そしてユングはこれを受けて、一元論と二元論の対立は、どちらかが正しいというようなものではなく、どこに注目するかという気質の問題にすぎないとします。同じ事態に対して、対立の軸に注目すると二元論、その間に起きる「流れ」、変化の過程に注目すると一元論に見える、というわけです。
こうした一元論と二元論についての話題の背景には、やはりフロイトへの対抗意識が垣間見られると思います。フロイトはユングのリビドー(心的エネルギー)理解に対して、一元論的だと批判をしているからです。
またユングは、古代の思想家たちにとっては、様々な思考は向こうから啓示のようにやってくるものであった、とします。何らかの思考やヴィジョンが人間の元にやってきて直接的な確信をもたらすのは、根源的な思考の一種であって、現代においても、科学者や芸術家たちがインスピレーションを得るときの体験がこれに相当しているとされます。
しかしながら現代人では、この感覚はかなりの程度まで失われ、私たちは思考を自分で作り出しているという幻想を抱いている、とユングは指摘します。実は私たちが思考するのではなく、むしろ思考の方が私たちを捉えて駆り立てているのです。そうした思考は「これは真実だ」という確信をもたらすので、その確信の誤りを指摘する事柄に対しては、それが何であれ怒りを覚えたりすることさえ起きます。
人間心理の中には、常に、現行の傾向とは対立する何かが存在していて、ユングはこれを、人は「イエス」と「ノー」を同時に言っている、と表現します。過度に強い意識的態度は、それに対立する内容を無意識にもたらします。ユングの挙げた例で言うならば、異端審問の父トルケマダは、意識的には信仰に満ちていましたが、無意識的には疑念に満ちていて、それを打ち消すために数多くの異端者を焚刑に処したのでした。こうしたリビドーの分裂があることで、私たちは何かを激しく望みながら、同時にそれを破壊せずにはいられなくなります。
しかしながらこうした分裂は、生にとって無くてはならならない根源的なものでもあります。水が高所から低所に流れるように、自然界のものはすべからくエネルギー的な落差のあるところで動きが生じます。私たちの心においても、対立するものがあるからこそ、その間にバランスをとる動きとして、生の活動が生じます。生とは、二つの極の間で起きる過程である、とユングは言います。
私たちは、まずは自身の中にある対立の存在を認める必要がある。しかしその対立を認めると、私たちはその分裂の中で引き裂かれて苦しむことになり、次はその間における調停が必要となります。すなわち、対立の上に立つ第三の地点を創造しなければならない。
道(タオ)やアートマン、キリスト教のシンボルなどは、それが生まれた当時には、そうした第三の地点を提供する実践として機能していました。また、ヨーガのように、こうした「第三の地点」を受け取りやすい精神状態にもっていくための技術体系もあります。
しかし現代人においては、こうした伝統的象徴がうまく作用しないために問題を抱えてしまう人々がいます。そうした人々には、啓示の性質を持つ、創造的な成長のプロセスが新たに必要となります。そうした成長を促すことこそが、実はユング心理学の目指すところなのです。
12月3日【第8回】
『分析心理学セミナー』第11回のテキストは、最後のレクチャー部分を除いて、参加者からの様々な質問についてユングが回答するものでした。主な内容は以下の通りです。
・ 祖先から受け継がれた元型的コンプレックスが呼び覚まされるのは、それが適応に必要となる局面になったときである。その際に、イメージと自我とがうまく調和しないと、その元型的イメージに憑依されてしまう。
・ 優越機能が発達の限界に至ると、現実を歪曲するようになる。この状況を変化させるには、補助機能の間の葛藤を通じて、劣等機能の重要性を認識し、優越機能による支配を放棄させる必要がある。
・ 私たち自身の内側に、対立するイメージとその葛藤が存在している。そのことを意識しないと、外にある対立にそれを投影することで、自分自身の葛藤に向かい合わないような防衛ができてしまう。
・ 「目的論的」と「目的志向的」を混同してはならない。明確な目標に向かうという「目的論」とは異なり、「目的志向的」とは、終局の状態はわからなくとも、ある特定の方向に向かって流れていくプロセスを指す。あらゆる生物学的プロセスは目的志向的である。対立するものを通して起きる心的エネルギーのプロセスも同様に、目的志向的である。
・ 外向タイプの人は、自分のことを対立を含むものとして考えたがらない。自分の外に対立があるものだと思う傾向がある。内向タイプの人は、自分のことを対立の両方を兼ね備えた両価的なものと考えるので、エナンティオドロミア概念を受け入れやすい。
・ イメージを解消することは、そのイメージになることである。解消したイメージが持つ心的エネルギーは、無意識の側へと流れ込み、無意識のイメージに力を与え、自我はそれにより強く捉われるようになる。英雄イメージを放棄すれば、無意識によって自我は英雄の役割に押し込まれる。
・ ユングのヴィジョンにおいて、ヘビは英雄と同等の何ものか、エリヤは認識、サロメはエロス的な要素を表している。
2021年2月4日【第9回】
今回は『分析心理学セミナー』第12回を取り上げました。この章は、『赤の書』第一部における最も重要な箇所となるヴィジョンについて、ユング自身が説明と解釈をしている重要なテキストとなります。
ユングはこれまで無意識について、自身の研究や臨床経験、あるいはフロイトなどの理論の検討を通じて知見を蓄積してきました。しかしそれは、他人の無意識現象を観察することで、間接的に自身の無意識と向き合うことでもありました。フロイトとの決別を経て、精神的にも不安定になったユングは、イマジネーションを通して直接に自身の無意識と向き合う決意をします。
ユングは地下へ降りるというイメージを利用して、自身の無意識内へと降りていきます。そこで現れたのが、すでに読んできました洞窟内のヴィジョンであり、英雄ジークフリートを殺害するヴィジョン、そしてエリヤとサロメ、黒いヘビに会うヴィジョンです。今回は、そうした一連のヴィジョンの続きで、かつクライマックスとなる箇所です。
ユングは二匹のヘビが戦うヴィジョンを通して、無意識の底へと降りていく抵抗を克服し、ヴィジョンの中で噴火口の奥となる冥界の底に行きます。そこはエリヤとサロメの家であり、そしてヘビもいます。
ユングによれば、意識と無意識との補償関係のみならず、無意識はそれ自体の中でバランスをとり、補償するイメージを持ちます。知恵を表すエリヤは、ユングの劣等機能でありアニマである盲目のサロメに対する補償です。これらは無意識内に現れた対立するものの組み合わせになります。一方でヘビは、「深いところに降りていく傾向、そして人を魅了する影の世界へと自分自身を送り届ける傾向をパーソナリティ化したもの」とされます。
サロメはユングに対して「あなたはキリストです」と言い、ユングはそれを馬鹿げた話だと感じます。しかしヘビが体に巻きついて締め付け始めると、ユングは自身が十字架にかけられたキリストの姿勢をとり、顔がライオンのような肉食獣の顔を呈していると感じます。もがき苦しんだ大量の汗の滴り落ちると、サロメは目が見えるようになります。
ユングはこのヴィジョンを、神格化の秘儀と関係のあるものと理解します。ここでのユングの姿は、ミトラ教のレオントセファルス(獅子の顔を持ち、ヘビに巻きつかれた神)でありアイオーン神でした。ライオンの陽とヘビの陰とは対立するものであり、この両者が和解する象徴です。ここでの神格化とは、自分自身が心の様々な対立する傾向の容器となり、それらが統合される場となることを意味しているのです。
ユングは後に「自己実現」について、長い個性化の試みの後にようやく姿を表すものだと説明する一方で、人生のある時期に、自己実現を予見するようなイメージをかいま見ることもある、ともしています。自分が最終的に何を実現するのかは、実際に人生を生きてみない限りわかりませんが、しかしどういう方向に自身を生きていったらいいのかについては、あらかじめ無意識的イメージの形で示されることがあるわけです。
この章で言及されるユングのヴィジョンは、ユングにとって、自身の生が目指すところのシンボル表現であるとともに、後にユング心理学として体系づけられる思想の源泉にもなるものでした。
…
私はこれから何を生きればよいかを、密儀はイメージで示した。私は、密儀の示したあの富の数々を何ひとつ有してはいなくて、まだそれら全てをこれから獲得せねばならなかったのである。 (ユング『赤の書』第一部・最後の文章)
2021年3月4日【第10回】ユングスタディ報告
今回は『分析心理学セミナー』第13回を取り上げました。
テキストはまず、とあるアメリカ人男性画家による絵の解釈から始まります。ユングはその絵の連作を、超越機能の働き、すなわち対立するものどうしの戦いを一つに統合して解決するプロセスとして読み解きます。その過程の中に現れてきた「魂のトリ」は、助けとなる本能的傾向を表すイメージであり、動物でありながら動物を超えた、神のような人間以上の存在です。
続いてユングは、画家に見られる東洋からの影響は、アメリカ人心理の特徴であるとします。プリミティヴなものに対して、南アメリカのラテン系の人々はそれを取り入れ、結果として意識の優位性を失いますが、意識と無意識との分裂には無縁でした。対して、北アメリカのアングロ・サクソン系の人々は、意識的には拒否しつつも無意識の中でプリミティヴな水準へと沈んでいった、とユングは言います。これは宗教的には、カトリックとプロテスタントとの相違についてのユングの議論に重なっていく内容です。
またユングは、前回から引き続き、「無意識は意識に対しての補償の役割を果たすだけでなく、それ自身の内でバランスを示す」という見方に触れますが、今回はここに、それは「無意識が適切に作用している場合」のみという条件を付け加えます。無意識の機能の調子が狂うのは、意識に属すべきもの・意識の決断を必要とするものを無意識に担わせるからであって、これを意識へと取り戻せば無意識の機能は改善します。いわゆる古代の秘儀も、これを助けるものでありました。
さらには、互いに補償的な関係を持つものには、個別単位の中にも同じバランスの原理を辿っていくことが可能だ、という指摘もなされます。例として挙げられるのは男性と女性の関係で、完全な生を得るためには補償としての他方の性を必要とする、とされます。
最後にユングは、アニマと老賢者を理解するための図示を行い、次回以降に続く一連の話を始めますが、ここでは意識的自我とペルソナについて説明がなされます。意識野は限りある場でしかなく、現実の世界との繋がりは、異性像を通してのみ生じます。またペルソナは、他者との関係性の仕組みによって作られる殻であって、自分が何者であるかは他者への影響から学んでいくしかない、とユングは述べます。
2021年4月1日【第11回】ユングスタディ報告
今回は『分析心理学セミナー』第14回を取り上げました。人間の心におけるアニマ・アニムスが、それぞれ男性・女性の心理の中でどう働いているかについての説明が主となります。
ここでのユングの男性性・女性性、あるいはアニムス・アニマに関する説明は、近年のジェンダーに関する現代の知見からすれば、強い偏りが感じられたり、過度に本質主義的に思われたりと、今に生きる私たちには必ずしも首肯できない面があります。そこをユンギアンたちはどう議論してきたか、私たちはそれをどう捉えたらよいのかが、今回のひとつの大きなテーマでした。
まず最初、本文に入る前に、会で公開している「ユング心理学基本用語集」をもとに、ユングのアニマ・アニムス論の概観をしました。
つまるところユングにおいては、男性性・女性性を社会構成的に見る観点と、本質論的に見る観点とが混在しており、そこを巡って様々に論争がなされていることになります。これらの批判的観点があることを確認した上で、本文を読み進めていきました。ユングは具体的には、以下のような指摘をしていきます。
・男性の集合的意識、アニマ像、集合的無意識には、肯定的・否定的な関係の二重性が見られる。
・女性における実際の男性との関係は、ただ一人の男性に限定されて排他的であるが、逆に無意識の中には複数のアニムス像がある。男性についてはこれが反転しており、複数の女性と関係を持つ一方で、無意識の中には唯一のアニマ像がある。
・男性のアニマは情動的で、男性がこれに憑依されると情動的になる。女性のアニムスはロゴス的なので、女性は諸々の意見に憑依される。
・女性の意識的態度は母の態度である。女性の無意識には二重の側面がある母親像が見出される。
・男性は二重性を区別し分離させようとするが、女性は二重性を結合して一緒に受け取ろうとする。
・女性の動物性には人間と融合した精神性が含まれているが、男性の動物性は単に暴力的なものである。
・男性の望む女性像は人工的なもので、現実の女性はそれと異なる一人の人間である。
これらのユングの見解について、現在の男女にどの程度当てはまるのか、どこが問題であるのかについて、様々な意見が取り交わされていきました。
2021年5月6日【第12回】ユングスタディ報告
今回はテキストの第15回および第16回の最初部分を取り上げました。ここでは、改めてタイプ論における機能の問題が扱われます。機能間の移行の問題や、各機能のあり方の説明を通して、私たちが現実やイメージといかに向かい合っているのかが明らかにされていきます。
まずユングは、意識の四機能を図の円の上に配置して、実際にはあり得ない、すべての機能を持つ理想的で完全な意識状態を表現します。そしてこの円の中心にある仮想上の核が、心における「自己」であるとします。
「自己」は意識的・無意識的プロセスの全体性もしくは総和のことです。私たちの自我にとっては、なにか重大なことはこの中心からやってくるかのように感じられます。またユングは、「自己」は心の中心であるともに、世界中に広がっているとも言えるとします。これは言葉の上ではあたかも矛盾しているように感じられますが、実際には、空間的に定位できない存在である心を具体的にイメージして理解する上で、様々な表現をしていくことは避け得ないのではないかと思います。
各機能の間には、二つの機能が入り混じった未分化な機能状態があって、それを通して一つの機能から隣接する補助機能へ、さらには対になる機能へと移行することができます。その人の劣等機能へのアプローチはその人の補助機能を通じて行う、というユングの以前の指摘が思い起こされるところです。
ユングによれば、どの機能も主体に現実についての確信をもたらします。感覚からは静的現実、直観からは動的現実、思考からは静的イメージ、感情からは動的イメージが与えられますが、世界の現実には、実際にこれらの機能に相当する四つの側面があります。人は自分の最も強力な機能を用いて生を解釈しようとしますが、実際には一つの機能だけでは、主体を超えた世界を把握できません。ユングは自身の経験から、特定の機能のみを使って現実を解釈することで生のあり方を損ってしまった人の実例を挙げつつ、このことを説明していきます。
今回は原文テキストの翻訳についての話題も多く出ました。みすず書房版と創元社版の二種類の邦訳の比較の中で、rational がそれぞれ「理性的」「合理的」、dynamic が「動的」「潜勢的」と訳されていることを確認し、その違いの意味について様々な意見が交わされました。
2021年6月3日【第13回】ユングスタディ報告
前回6月3日のスタディでは、テキスト第16回の中盤部分を取り上げました。
ユングはここで、図を用いて、個人のパーソナリティの構造についての説明を行っています。外的客体と個人とをつなぐのがペルソナ、内的な集合的無意識と個人とをつなぐのがアニマ・アニムスです。自我は主体としてのパーソナリティであり、影は客体としてのパーソナリティ、そしてその間に仮想の個人の核としての自己がある、とされます。
これに併せて、集合的無意識の影響力についても説明がなされます。集合的無意識の本体は必ずしも心理的なものではなく身体的なレベルにあります。集合的無意識の影響力は外界に投影され、外的世界に存在するように感じられます。
そして最終的に影と自我が結合し、個人が二つの世界の媒介となれば、現実の客体が神話的性質を帯び、生は途方もなく豊かになる、とユングは言います。外的客体への投影を引き戻した上で、無意識的イメージの投影をあえて生きることも必要だとするユングの指摘は、たいへん意味深いものと思われます。
ユングは続く補論において、主客の関係を捉える立場として、素朴実在論的で唯物論的な「事物の中の存在 esse in re」、唯心論的な「理性のみの中の存在 esse in intellectu solo」の二つを挙げた後に、自身の第三の立場となる「魂の中の存在 esse in anima」を説明します。これは外界の客体を認めるとともに、我々が知覚可能なのは精神内のイメージのみとする立場です。私たちにとってのイメージは、単なる主観でも客観でもなく、主体と客体との間の相互作用として立ち現れてくる何ものかなのです。
翻訳についての議論も活発に行われました。「集合的無意識の本体は必ずしも心理的なものではなく身体的なレベルにある」に関する部分で、「psychical」を「physical」の誤りとして訳すこと、また「esse in intellectu solo」を「知性のみの中の存在」ではなく「理性のみの中の存在」としていることの意味合い、などについて意見が交わされました。
2021年7月1日【第14回】最終回
今期最終回のスタディでは、テキストの第16回の残り部分を取り上げました。ここでは三つの小説作品の分析が行われます。取り上げられている作品は、ハガード『あのひと』、ヘイ『悪のぶどう園』、ブノア『アトランティード』です。参加者たちが分科会形式で内容の解釈を行い、それをセミナー内で発表して、参加者が議論する中でユングが評するというものです。
『あのひと』(邦訳『洞窟の女王』)は、このセミナーに限らず、ユングがアニマについて語る際に最もよく引き合いに出される作品です。ユングによれば、作者ハガードがアフリカのプリミティヴな国々を旅していたことが、集合的無意識の特殊な活性化を促しました。男性が女性にアニマを投影できなければ、その男性は女性から切り離されてしまいます。物語全体が太古の昔に予見されているのは、この物語が元型的パターンの繰り返しであるから、とされます。また、英雄が発達するには父親は去らねばならないというユングの指摘は、フロイトの父親論との比較においても興味深いものがあります。
『悪のぶどう園』(邦訳なし)では女性のアニムスの問題が主なテーマですが、同時に現代の観点からは、不幸な結婚生活における夫婦のDVの心理を描いた作品としても読めるでしょう。メアリーは愛情を知らぬまま、知恵を求めて年長のラティマーと結婚しますが、ラティマーの方はエロス的なアニマをメアリーに投影している。互いにアニムスとアニマを投影できなくなった時、男性側に性愛性の噴出が起き、女性は監禁され、女性はそこから救ってくれる男性というアニムス像を抱くようになる。夫婦がともに元型的な役割に囚われていってしまう過程が作品の中に読み込まれます。ヨーロッパ中世に始まった女性の純潔性への信仰が、女性に対する残虐性を生み出したという指摘も重要です。
『アトランティード』(邦訳同タイトル)も「あのひと」と同じく、男性のアニマがテーマです。しかしながら両作品におけるアニマ像描写は、「あのひと」のアングロ・サクソン系と「アトランティード」のフランス人とにおける男性心理の違いを示しているとユングは指摘します。精神的で未来を予感させる「あのひと」の女王アッシャに比して、「アトランティード」の女王アンティネアは官能的で本能的ですが、これはフランス流の理性主義に対応しています。「アトランティード」が官能性と宗教性とを同時に兼ね備えているのは、フランスがアングロ・サクソン系とは異なり、キリスト教を受け入れた時にはすでに高度な文化的基盤を保持していた、という歴史的事実に関連しているとされます。
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この小説作品の分析をもって、この『分析心理学セミナー』は終わり、今期の『分析心理学セミナー』を読む企画も最終回となります。コロナ感染症の世界的流行により、会場開催の急遽中断からオンライン開催での再開と、なにかと不手際も多い開催となりましたが、なんとか一年半かけてまる一冊を読み終えることができました。これもひとえに、参加された皆様のお力添えによるものです。改めて皆様に厚く感謝申し上げます。