【開催概要】
「心理学と宗教」は、第二次世界大戦勃発の二年前となる1937年、アメリカ・イェール大学での「テリー講義」としてユングが行なった、三部構成の英語講演記録を元にしたテキストです。ユング自身が講演録に大幅に手を入れ、英語版が翌年の1938年、ドイツ語版が戦時下となる1940年に出版されました。英語版・ドイツ語版ユング全集では、第11巻の冒頭論文として収録されています。日本語訳については、今現在、二種類の邦訳が公刊されています。
「心理学と宗教」においては、宗教の本質についての議論から始まり、キリスト教のシンボリズム、マンダラや錬金術などにも言及がなされていきます。ユングの後期研究についての概観であり、かつユング思想の最適な入門編として読むことができます。
■ 講読テキスト:
C.G.ユング「心理学と宗教」
(村本詔司訳『心理学と宗教』人文書院、1989.4 所収)
・ ドイツ語版および英語版ユング全集第11巻所収の当該論文も参照します。
・ もう一つの邦訳となる、以下のテキストも適宜参照します。
浜川祥枝「人間心理と宗教」
(ユング著作集第4 巻『人間心理と宗教』日本教文社、改訂版1970.4 所収)
■ 開催日:原則として、毎月第一木曜日(1、8月は休止) 20:00〜22:00
■ 開催方法:オンライン開催(zoomミーティングルーム形式)
適宜、会場開催の併用も検討します
■ 案内役:白田信重、岩田明子(ユング心理学研究会)
司会進行:海野裕美子(ユング心理学研究会) 資料協力:山口正男
【実施記録】
第1回:9月2日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
第2回:10月7日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
第3回:11月4日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
第4回:12月2日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
第5回:2月3日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
第6回:3月3日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
第7回:4月7日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
第8回:5月12日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
第9回:6月2日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
第10回:7月7日(木)20:00
〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
第11回:9月1日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
第12回:10月6日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
第13回:11月3日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
第14回(最終回):12月1日(木)20:00 〜 22:00 (開場19:45) 開催概要
【要約解説】
9月2日【第1回】
初回では、全集パラグラフ1-18(邦訳書p.9-17)を読み進めました。ここでは、宗教を扱う上でのユングの基本的立場が説明されます。
ユングはまず、自分の立場を「現象学的」と説明します。これはひたすら経験に基づき、事実を記述するというものです。処女誕生のような宗教的観念を扱う際には、それが本当に事実であるのか嘘であるのかを問題にせず、ただそうした観念が実際にあることを一つの事実として捉えます。
その上で、ある一定の観念は、あらゆる場所と時代に現われてくるが、それらは個人が作りだしたものではなく個人に沸き起こってくるものだ、とユングは言います。
宗教とは、そうした観念が持っている力動的な要因とヌーメン性(聖なるものに対する畏怖と魅惑の入り混じった宗教的感情)を、注意深く考慮して観察し、それらに配慮を与え、敬虔に崇拝することである、とされます。
宗教の信条は、もとの宗教経験が成文化され教義になったものですが、心理学的な立場から重要なのは、様々な宗教の各々の信条の内容ではなく、それら全ての元となっている根源的な宗教体験のほうなのです。
続いてユングは、精神科医としての立場から、神経症の原因は器質的・身体的なもので説明しつくせない心的なものである、とします。思い込みは、人に影響を与え、人を動かし、実際に有害かつ危険となりうるものです。その意味で思い込みは、単なる主観というようなものではなく、現実的な存在です。
さらにユングは、私たちが直接的に知っている存在の唯一の形は心的なものだ、と言います。私たちが実際に体験できるのは心の領域だけであり、物質的なものでさえその心に反映した限りで知覚されます。心は私たちにとって、存在そのものです。
特定のイメージや言明について、その真偽を問うのではなく、まずはそれが存在することを認め、その背景に現実的に働いている心理的な意味や作用に注目する。これが宗教を理解する上での、ユングの基本的な宗教理解の方法論となります。
10月7日【第2回】
10月のスタディでは、全集パラグラフ19-32(邦訳書p.17-24)を読み進めました。ユングはここで、癌に罹患しているという強迫観念を持つ患者の例を挙げながら、宗教を理解する上での基礎となる精神医学的観点について述べています。
患者の意図に反して、無意識の自律的イメージの諸力が意識に侵入し、わたしたちの理性や感情に影響を及ぼすことがあります。ユングはこれをコンプレックスという自身の心理学上の概念で説明します。コンプレックスは自我の意図とは別に、独立した副人格あるいは部分人格のように振る舞うので、まるで自分が別の誰かに取り憑かれて動かされているかのように感じられます。
またユングは、人々が集まって群衆になると、集合的人間のダイナミズムが解き放たれて、個人が群衆の分子となってしまうと指摘します。個人においても同様に、日常とは異なる出来事があると、非個人的で圧倒的な諸力が現われてきて、それに突き動かされてしまいます。どちらも無意識的な本能の力が意識に侵入し、個人としてのあり方が阻害されることによって生じる現象です。
そしてユングは、こうした無意識から生じる危険から身を護るため、人類が現われて以来、超自然的影響に一定の形式と掟で制限を加えることが続けられてきた、と述べます。宗教上の儀式は、無意識に一定の表現を与えることでそれを穏やかな方向づけに変化させる、ある種の心理的防衛装置の役割を果たしてきたことになります。ヨーロッパではこの二千年の間、キリスト教会の制度がこれらの防御機能を引き受けていたとされます。
11月4日【第3回】
11月のスタディでは、全集パラグラフ33-40(邦訳書p.24-30)を読み進めました。
まず最初に、参考文献として、ユングの別のテキスト「現代人の魂の問題」(1928)から一部を抜粋して取り上げました。そこでは、「宗教形式が人間の生の全体を包含しえなくなると、心は制御できない独立の要素となりはじめる」「われわれが心理学を所有しているという事実自体が、現代人の徴候である」ことが説明されます。
宗教形式が人間の心のあり方を全て受け止めていた時代には、心は宗教形式のなかに全て外部化されて表現されていました。近代になり、宗教形式が機能しなくなってはじめて、私たちは内面を持つこととなり、それを説明するための心理学を必要とします。ユングが考えているのは、宗教を心理学に還元して説明することではなく、宗教と心理学のどちらもが同じように、人間の持つ宗教性の表現である可能性なのです。
そうした観点をおさえた上でテキストに戻ると、ユングは前回、ヨーロッパではキリスト教会の制度や儀式が、無意識からの危険に対する心理的防衛装置の役割を果たしてきたことを指摘しています。プロテスタンティズムの登場は、この宗教の形式や儀式を破壊するものでした。プロテスタンティズムによって、人は内的経験に直面しはじめましたが、教義と儀礼から与えられてきた保護と導きはもはや存在しません。
そのような時代に生きる、既存の信仰形式に同意できない者において、その人が持っている宗教性はいったいどこに向かうのか。ユングがこの問題を考える上で採用するのが、現代人の見た夢の分析です。夢は心の無意識過程を正確に映し出しているので、無意識に存在する宗教的傾向についての情報源として用いることができる、とユングは言います。ユングはそうした夢の例として、ユングの患者であった一人の男性知識人が見た夢を取り上げていきます。ちなみにこの知識人とは、ノーベル賞物理学者のパウリであったことが、後の研究で明らかになります。
12月2日【第4回】
12月のスタディでは、全集パラグラフ41-55(邦訳書p.31-37)を読み進めました。ここでユングは、現代人の無意識に存在する宗教的傾向を伺うため、自身の患者であった男性知識人(ノーベル賞物理学者パウリ)が見た夢を取り上げていきます。その夢とは、教会の中で厳粛な宗教行事が執り行われた後、その同じ場所で、参加者たちの要望に応えて陽気で享楽的な第二部の集まりが始まるというものでした。
ユングはまず最初に、自身の夢の扱い方について説明をします。ユングによれば、夢は自然な現象であり、意味深い動機を直接に表現しているので、その内容は額面通りそのまま受け取るべきものです。これは、フロイトによる夢の扱い方との違いを意識した発言です。
ユングと協働していた時期のフロイトは、神経症の原因を、抑圧された性的願望にあるとしました。この願望は夢の中において、意識の検閲をかいくぐるよう、それとは気づかれにくい変形したイメージで現れます。この変形したイメージを、抑圧された元の願望に還元して意識化することで、神経症の症状は消失するとフロイトは考えました。つまりフロイトは、一見して性的に見えない夢であっても、その背後には性的願望があり、その願望に至るような解釈をしなければならないと考えていました。
フロイトの立場であれば、宗教的に思える夢であっても、必ずしも宗教について語った夢とは見なさないことになります。ユングはこれに異を唱え、宗教的な夢をそのまま宗教的なテーマを扱うものとして受け取ることを、ここで明言したことになります。
またユングは、一つの夢は単体で解釈するものではなく、連続した無意識過程の系列の一部であるとします。実際ユングは今回の夢について、重要な意味を帯びた二つの夢の間に挟まれて、そこに現れた課題から逃げ出したいという試みであると理解しています。この夢は、道徳的葛藤の苦痛と悲嘆を忘却しようとするものであって、夢の中に現れている女性(アニマ像)はこの態度に対して抗議しているとされます。
もっともユングによれば、この夢に現れているのは、当時における宗教の状況そのものです。夢に現れている大衆の重視と、異教的理想(ディオニュソス=ヴォータン的祝祭)の浸透は、ヨーロッパで今日実際に起こっているとユングは言います。世俗性と群衆本能によって変質していることは、生き生きとした神秘を喪失してしまった宗教のよく知られた特徴だ、とも指摘されます。
この箇所をもって、ユングの一日目の講義は終わります。続く二日目以降では、ユングが重要な意味を持つと捉えている幾つかの夢についての解釈が述べられていきます。宗教的なるものの本質の問題の話に、いよいよ入っていくことになります。
なお、ディオニュソスは、ギリシア神話における豊穣と酩酊、祝祭、狂気の神です。ニーチェの『悲劇の誕生』(1872)では、理性的なアポロンと情動的なディオニュソスとが対比されます。ヴォータンは、北欧神話の神オーディン(戦争と死の神)のドイツ語表現です。ユングは比較的な観点から、この二神は多くの共通点を持ってるとしています。ユングは「ヴォータン」というタイトルの文章も書いていますが、これはユングのナチスへの接近を示す根拠に挙げられることもある文章です。この文章の扱われ方の妥当性も含め、課題のあるテーマです。
2月3日【第5回】
令和4年度の初回となる2月のスタディでは、全集パラグラフ56-68(邦訳書p.37-44)を読み進めました。ユングの全三回講義のうち、今回から第二回目に入ることになります。ユングは引き続き、患者であった男性知識人(ノーベル賞物理学者パウリ)の見た夢を元に考察を述べていきます。
パウリが見た「サルの復元」の夢には、本能性を再統合することによって新しい人間になる「霊的な再生」のテーマが示されている、とユングは言います。
この夢を見た頃のパウリは、夜な夜な歓楽街へと繰り出し、女性とアルコールに依存をする毎日でした。偉大な物理学者としての知的な昼の生活とは対照的な夜の生活が、すでにコントロールできないものになっていたことが彼の抱える問題でした。そんなパウリにとって、意識的なあり方を損なわない形での本能性の再統合が必要であるとユングは捉えています。
「死と再生」は、『赤の書』や『リビドーの変容と象徴』にも見られる、ユング心理学の最初期からの重要なテーマです。
ユングは続いて、パウリの見たまた別の夢を提示します。その夢の中でパウリは、「内的平静あるいは精神集中の家」と呼ばれる厳粛な建物に入り、純粋になり浄化されるべく精神集中を行いますが、そこに「声」が聞こえてきます。
声は、「宗教は女のイメージを排除したり取って代わったりするものではなく、むしろ魂のあらゆる他の活動に付け加えられてそれを究極的に完成させるものだ。生命の充溢から自分の宗教を誕生させねばならない」ことを告げます。この夢はパウリにとって、人生と人間に対する自身の態度を完全に変えてしまった経験の一つとなりました。
ユングは「精神集中の家」の中に出てくる、ピラミッド型に配置された多数の燃える蝋燭に注目し、そこに「四元性」および「生命としての火」という、古来からの重要なシンボリズムが現れていると指摘します。どちらも神聖なイメージであり、ここには神性の現前かそれに等価な観念が表れています。
また「声」は、無意識の重要で決定的な表象として、パウリの夢にたびたび現われてきたとユングは説明します。無意識の心から来る「声」は、ときに優れた知性と目的性をおびることもありますが、これは預言者たちにも見られるような、基本的な宗教現象でもあります。「声」は、自分の意識的努力で産出したものではない、無意識の産物です。
私たちは自分のことを意識の範囲内でのみ認識可能ですので、無意識を含む人格の総体の完全な記述や定義は不可能です。ユングは「声」の現象を、無意識内にある様々な部分の中心から発せられているものであると理解します。「私」すなわち意識的自我は、総体としての心の一部であり、全体的な心的人格の中心としての自己に従属しているのです。
画像はスタディ中に提示したもので、テトラクテュス、および「声」の現象の図示になります。
テトラクテュスとは、1から4までの自然数とその合計である10を図形化したもので、四元性に関わるシンボルです。宇宙は数により支配されるとした古代ギリシアのピタゴラス学派は、世界秩序を表す四元数の図としてこれを神聖視していました。晩年のパウリもまた、このテトラクテュスに注目し、ユングの言う個性化過程の統合のシンボルでもある「三から四への移行」に関連する重要な数学的問題を示唆するものとして研究していました。
3月3日【第6回】
3月のスタディでは、全集パラグラフ69-84(邦訳書p.44-50)を読み進めました。引き続き、ユングの患者であった男性知識人(ノーベル賞物理学者パウリ)の見た夢を元に考察が述べられていきます。
パウリの夢に現れる声は、優越性と無条件の権威をもって語りかけてきますが、これはその声が意識より完全な心、すなわち意識だけでなく無意識までを含めた心全体の中心から発している心的内容であるからだ、とユングは考えます。こうした声の現れは、例えば旧約聖書の預言者が神から聞いた言葉のように、基本的な宗教現象の一つでもあります。
その上でユングは、宗教を「生の完全さ、両面を含んだ生の結実であり、その極みである」とします。この考え方は、一般的な宗教観とは必ずしも相容れないものであると言えるでしょう。現実に存在する宗教においては、何らかの人間のあり方を善しとし、それを妨げるあり方を退けるところで成り立っているからです。
ユングは一般的な宗教における宗教信条を、本来的な宗教の代用物とみなします。代用物といっても、ここでは必ずしも否定的な意味合いで言われているわけではありません。むしろ代用物としての宗教信条は、心理的な直接経験を教義と儀式における適切な象徴に置き換えることで、直接的な宗教経験に対して効果的な防御・保護をなすものだとされます。
宗教の教義は客観的心、すなわち無意識の自然発生的・自律的な活動を映し出しているので、科学の理論に比べて、非合理的な心の事実を表わすのに適しているのです。キリスト教の教義も、心的現象としての自然発生的な幻、夢、トランスに起源があるので、必ずしもキリスト教に独自なものだけではなく、普遍的な側面を持ちます。
画像は、ユングの考える「声」の図示の改訂版です。
ユングによれば、無意識は人格化して現れる傾向を持ち、いわゆる影もアニマ・アニムスもイメージの中では人として語りかけてくることがあります。しかしそうした人格の「声」は、必ずしもパウリの夢に現れる声のように「優越性と無条件の権威」を持っているわけではなく、むしろ自我と同格のものとして捉えられるでしょう。
優越した「声」は、意識・無意識を含む心全体の中心となる「自己」から発せられるからこそ、当の優越する特性を持ちえます。ユングが、「生の完全さ、両面を含んだ生の結実」を宗教の本質として考えるのは、心の全体性こそが宗教的な優越性の根源を担保すると見ているからでしょう。
4月7日【第7回】
4月7日のスタディでは、全集パラグラフ82-91(邦訳書p.50-56)を読み進めました。ユングはこれまで、カトリックが保持してきた教義が持つ防御的な心理機能について述べてきましたが、ここでは防御としての教義を失ってしまったプロテスタント者の心理的特性と、その帰結としての現代の問題について語られていきます。
ユングによれば、プロテスタンティズムが教義や儀式を取り壊したことによって、方向付けられていた無意識のエネルギーが解放され、好奇心と欲深さへと流れ込み、結果として科学技術の急速な発展や国家全体主義などを生み出すことになりました。これは、プロテスタンティズムが歴史的にもたらした危険な側面です。
この一方でプロテスタント教徒は、約束された神からの救いを失ったことで、強い心理的緊張の中に置かれ、良心をとぎすまして自己批判を行うようになります。そのため、直接的な宗教経験を得るユニークな精神的チャンスを与えられることになり、新しい人間のあり方を実現できる可能性を持つことになったとユングは捉えます。これはプロテスタンティズムに潜在するプラスの側面です。
ここでユングの言うプロテスタント的なものとは、つまるところ、より一般的にわれわれ現代人のあり方そのものを指していると捉えてもいいでしょう。カトリック的なものからプロテスタント的なものへの変容こそが、現代の人間の精神性を特徴づけるものなのです。
続けてユングは、個人の直接体験や、さまざまな民族の神話や民話において、一定の元型的モチーフが繰り返し現われることに触れ、これは遺伝によっても伝えられる人間の心の元型的パターンに由来するとします。この講演録において、ここに来て初めて「元型」という用語が出てくることになります。パウリの夢に現れている四元性の象徴は元型的なものであり、ヌーメン的な性格と「聖なるもの」の意味を持つことが指摘されます。
5月12日【第8回】
5月スタディでは、全集パラグラフ92-107(邦訳書p.56-65)を読み進めました。
ユングはまず、四元性、ならびにこれを含む円や球が、歴史的に見ても「神」を意味する表象であったことを、多岐にわたる様々な資料を通して示していきます。四は一者の部分・質・側面を表す古くからの象徴であり、四元性は創造において顕現する神の直接的な表象です。さらには両性具有のイメージも、神性を表すものとして共に用いられてきました。これらのモチーフは、あらゆる場所、あらゆる時代に見られる神性の元型的イメージです。この元型の経験にはヌーメン的性格があり、宗教経験のひとつとして位置づけられます。
ユングはこうした歴史的な考察を経た上で、近代人は夢の中に現れてきた円や四の象徴をどのように受け取っているのかという問題を挙げ、「彼らはそれを、自分自身の何かを表していると経験する」と指摘します。これは「内なる神」であって、神と人間が本質的に同一であることを示しています。新たな自分のあり方を生み出す創造性は、自分という人間の内にこそある、と感じるのが近代人なのでしょう。
続けてユングは、キリスト教の中心的なシンボリズムである「三位一体」について述べていきます。三位一体は、父(神)、子(キリスト)、聖霊の三つが「一つの実体における三つの位格(ペルソナ)」である、それぞれが自立した存在でありながら同時に一つの実体でもある、というキリスト教の基本的な教義の一つです。
ユングはこの教義の心理的側面に目を向けます。キリスト教の三位一体はどれも精神的かつ男性的な要素から成り立っており、ここからは第四の要素としての、「悪」もしくは「肉体性・女性性」が排除されています。この排除こそが、キリスト教に内在している特殊な道徳的・心的態度だとされます。
ユングによれば、人間の心の自然な定式は「四」です。夢に現れてくる無意識の心は、三位一体を自然の傾向によって四元性に変容させて表現します。四元性は排除された要素を補うものであり、心の統一性を意味するのです。
今回ユングの示した歴史的資料を少し列記するならば、円積法、プラトン『ティマイオス』、宇宙魂、錬金術のプリマ・マテリア(第一質料)、エンペドクレス、偽トマス『黄金の時間』、第二のアダム、テトラクテュス、グノーシス主義、アントロポス(原人間)、テトラモルフス、新しいイェルサレム(ヨハネによる黙示録)、錬金術作業の四段階(黒化、白化、赤化、黄化)、エゼキエルの幻、マンダラ、アプレイウス『転身譜』、そして三位一体 … これらはみな、ユング後期の著作では繰り返し言及されるモチーフです。まさにユングの後期研究についての概観という様相を感じさせる箇所でしょう。
画像はテトラモルフに関わる絵です。
テトラモルフは、「四」を表すギリシア語に由来するもので、新約聖書(エゼキエル書とヨハネの黙示録)に描かれている、神の玉座の周りにいる四つの生き物のことです。人もしくは天使、獅子、牛、鷲で構成されており、それぞれが新約聖書の四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を表すとされてます。アントロポス(原人間)やキリストの象徴でもあります。ユングはこれを、神の創造に関わる円の四つの部分の象徴として読み解きます。
画像のいちばん右側は、マルセイユ版タロット、大アルカナ「世界」のカードです。ここにもテトラモルフが見られますが、注目すべきは中央にあるのが、通常は排除される傾向のある女性の像であることでしょう。
6月2日【第9回】
6月スタディでは、パラグラフ108〜124(邦訳書p.65-73)を読み進めました。ユングの全三回の講演のうち、最後の第三講演に入ります。ここは、パウリの見た有名な「宇宙時計の夢」の分析に入る箇所となります。
ユングは四元性象徴について、心理学的な影響力を持ち、実際に重要な役割を果たすとします。パウリの見た「宇宙時計の夢」は、まさにこれで、パウリに「もっとも崇高な調和の印象」を感じさせて、彼の治療がひと通り終結するほどに深く影響を与えました。
パウリの見た宇宙時計とは、以下のようなイメージです(図像参照)。
垂直の円は白い縁をした青い円、水平の円は四色に分割されて、四人の小人たちがそれぞれ振り子を持っています。その周りを大きな黄金の輪が囲んでいます。それぞれの円や輪は中心を同じくしていて、全体を大きな黒鳥が支えています。
どの円も32分の一のリズムを持っていて、青い垂直の円の針が32目盛りを一周すると、水平の四色の円が32分の一回転します。水平の四色の円が一回転すると、黄金の輪が32分の一回転する、という三重の関係です。
ユングは、この夢を分析するために、歴史上の様々なイメージとの比較を行います。プラトン『ティマイオス』の二つの円、天球の音楽的調和、東洋のマンダラ、エジプト神話の「ホルスの四人の息子」、占星術のホロスコープ、そして中世の修道院長で詩人であったギュイヨームの見た幻視などと付き合わせることで、その意味を読み解いていきます。
ユングによれば、この宇宙時計のマンダラは、三重のリズムによって神性を、四色に分割された円によって魂を表現しています(三は神の三位一体であり精神性、四は四元素で構成されるこの地上世界を表すのでしょう)。これが意味するのは、魂が神と一つになること、すなわち、身体性を伴う生命原理である魂が、精神的存在である神と統合することです。
この夢には、心の荒廃を招いている物質と精神、肉欲と神への愛の葛藤の可能な解決、対立物の和解が暗示されています。そもそもパウリがユングのもとを訪れたのは、昼の間は大学で抽象的な学問の世界に生き、夜は歓楽街で酒と女性に溺れる享楽にふけるという二重性に引き裂かれ、自身のコントロールができなくなっていたからでした。この宇宙時計の夢は、精神と肉体の分裂を統合して意味ある全体を作ろうという試みであり、マンダラには四つのものを統一して調和的に機能させる働きがあるのです。
またユングは、ここでの垂直の青い円が青色であることにも注目します。青色は、天上にあがったマリアの着ている衣装の色であるからです。
マリアが死後に、霊魂・肉体ともに天国に上げられたという「聖母の被昇天」の教えは、聖書の中には直接記されてはいませんが、何世紀にもわたって聖伝として重視されてきました。これは女性的・肉体的なるものが、精神的な場所である天の中に引き上げられて一つになることを意味します。キリストである王が同時に三位一体であり、四の数は彼の妃としてのマリアです。宇宙時計の夢においては、青い円と四色の円、黄金の輪が中心を同一にすることで、このことが暗示されています。
ちなみに、聖母の被昇天は、このユングの講演の13年後となる1950年、教皇ピオ十二世によりカトリックの正式な教義となりました。ユングは『ヨブへの答え』(1952) の中で、このマリア被昇天の正式な教義化を、キリスト教の歴史における重大な出来事として高く評価しています。
画像は、ディエゴ・ベラスケス「聖母戴冠」です。上方にキリストと神、そして鳩で表現されている聖霊の三位一体がおり、精神・肉体の両方を携えて天上に上がってきた聖母マリアに戴冠しています。ここでは、男性的・精神的要素を示す三位一体だけではなく、女性的・身体的要素を表すマリアが加わった四元性が構成されています。ユングに言わせれば、精神的な三位一体に対して、そこから排除された四つ目の要素を加えて表現したくなる「自然の心」というものが存在するわけです。
なお、宇宙時計の夢との関連で重要になる通り、マリアの衣装はしっかりと青色に描かれています。
7月7日【第10回】
7月スタディでは、パラグラフ127-139(邦訳書p.73-81)を読み進めました。
ユングはまず、アニマや影の抑圧という問題を提起します。これらは、意識の生活からこれまで排除されてきた傾向と内容のすべてを含む無意識であって、これらが意識されておらず、抑圧されて意識から孤立すると、様々な形での障害や妨害として現れてきます。ユングは社会における集団的対立にも、この心理学的問題の現れを見て取ります。人間の意識的人格と、アニマや影とが共存できる道を見つけて、これら対立物をいかに和解させるかということが主要な問題となります。
こうした現代の問題に対して、人々が見るマンダラのイメージには、完全さと合一が表現されており「和解象徴」としての位格があるとします。マンダラのイメージは、全ての要素を包含するような宗教的態度を明らかにして増幅する作用を持つものなのです。
そしてユングは、現代人が見るマンダライメージの重要な特徴として、中世までのマンダラに見られるものとは異なり、神がマンダラの中心におらず、メカニズムのみがあって中心には何もない、あるいは神ではない別のものが置かれているかである、と述べます。
マンダラは「宗教的」と呼ばざるをえないある種の態度の表現です。宗教は最高の、あるいは最強の価値への関係です。人間の体系の中で最大の力をもつ心理学的事実は神として機能していますが、上の事実は、現代では神のイメージが圧倒的な要因であることをやめていることを表しています。
今日のマンダラを見た人々は、そのマンダラを自分自身を表すものとして感じています。彼らのマンダラ体験を要約すると、「彼らは自分自身に立ち返り、自分を受け入れることを学び、自分と和解することが可能になり、それによって困難な状況や出来事とも和解することになった」となります。これは従来、「彼は神と仲直りし、自分の意志を俸げ、自分を神の意志に従わせた」と表現されてきたことと非常によく似ているとユングは言います。
ユングによれば、現代のマンダラにおいては「神のいる場所が人間の全体性に取って代わられている」ように見えます。「神の不在」を抱えた現代人の宗教性は、意識と無意識の全体としての心の中心たる「自己」に、つまりは自己実現へと向かっていくことになります。この変化こそが現代人の心のあり方を示しているのです。
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図は、ユングの高弟であるエーリッヒ・ノイマンの著作『グレートマザー』(邦訳:福島章他訳、ナツメ社、1892)からです。ここでは女性に関わるシンボル群の関連性が一覧されています。
これは、ユングが「象徴の相互浸透」として説明していた、象徴内容の本質的類似性に基づいて各々の象徴の性質と内容が相互浸透しあう状況を、非常によく示した図になっていると思います。
例えば、イメージとしての天と大地はたいてい対立的に捉えられますが、この図ではどちらも女性のシンボルとして現れうることが示されています。象徴は多義的で曖昧なものですが、これによって象徴は相反するものを同時に表現することが可能になり、論理的には対立するしかない両者を一つの表現の中に共存させて統合することが可能になるのです。
9月1日【第11回】
9月スタディでは、パラグラフ140-156(邦訳書p.81-85)を中心に読み進めました。
ユングはここでは、外界への無意識の投影が引き戻されたことで、あらゆるものを自分自身の内に抱え込んでしまった現代人の問題と葛藤とを考察します。そんな現代人の典型的な姿として、「神は死んだ」の言葉で知られるニーチェの『ツァラトゥストラ』が読み込まれていきます。
ユングの「無意識」の概念は、単なる「意識されていないもの」のことではなく、むしろ意識領域内に入ってきていながら、意識の意志に対して阻害的に働く無意識的コンプレックスを指しています。意識的な言動を抑止して、なんらかの言動を無理矢理に行わせてしまうものが「無意識」です。(依存症の患者が、「やめなければ」という自分の意志に反して依存的行動を行ってしまう、という例を考えるとわかりやすいです)
ユングは、魂の内には、心の自由を制限・抑制する「神」のようなものが存在する、とします。私たちの心の中で最も高い価値と強制力を持った体系は、実際的にも比喩的にも「神」となります。
ニーチェの「神は死んだ」は、ヨーロッパにおける伝統的な「神」のイメージが、最高の価値体系として機能しなくなってきたことを意味します。しかし、私たちを強制し方向付けていくような、無意識の中の本質的な「何か」とそのエネルギーが無くなったわけではなく、それは現代では別の名前で再び現われてきます。それが「国家」だったり「〇〇イズム」だったりする、とユングは述べます。
ユングは、神の観念を失った現代人の行き着くところとして、二つの類型をあげます。一つはニーチェのように敏感な人の場合で、自分自身に向かう心的エネルギー量の多さゆえに、人格の分離という心理学的障害になります。一方で鈍感な人の場合には、個人レベルでは特段の問題がなくとも、大衆のレベルにおいて国家主義などの流行病につながるとします。
要するに、心の病になるか、大衆心理に呑み込まれるか、というわけです。このどちらにもならない道を考えるのが、ユングの考える現代における課題となります。
そこでユングが改めて注目するのが、実はキリスト教です。キリストの生涯の諸形式は、ユングによれば元型的なもの、つまり多かれ少なかれ人間に共通する普遍的な在り方であり、それは普通の人間にも起こりうるものです。そして、キリストの復活に見られるように、キリストは死んで転換する神の類型であり、そこにはニーチェが問題にした「神の死」もすでに先取りされている、とします。
今回のテキストの箇所には、ユングが後になって講演録へ大幅な修正や書き足しを行っており、現在の全集版にはその修正バージョンが収録されています。これはこの箇所が、ユングの後期研究に直接につながっていくような問題に関わっていることを示しています。神が死んだ後に、心の病や大衆心理に陥ることなく、いかなる形で神的なるものは復活が可能なのか。これこそがユングの後期研究を貫く大きなテーマの一つです。
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画像左は、ニーチェの発案で撮影されたという有名な写真です。ニーチェ(いちばん右)、パウル・レー(中央)、ルー・ザロメ(左)となります。
ザロメは世紀末の有名なファム・ファタールとして、多くの交流関係を持った女性です。ニーチェとレーはどちらもザロメに求婚していますが、断られています。
ニーチェは、鞭を持つザロメを主人とする者として自らをイメージしたことになります。この三角関係の写真に、人々が「三位一体」という神学的なタイトルをつけたことは暗示的です。つまりは「死んだ神」ではない、ニーチェにおける「新たなる神」が、ここに布置されているわけです。
画像右は、1939年5月10日、大衆に支持されるヒトラーの写真です。ユングがこの「心理学と宗教」講演をしたのは1937年、その二年後の1939年に第二次世界大戦が勃発します。こうした同時期の雰囲気も、講演には影響を与えているでしょう。ちなみに、公刊されたユングの『心理学と宗教』は、ナチスによって発禁対象に認定されました。
ユングは、神の観念を失った現代人の行き着くところは、ニーチェのように心の病になるか、大衆心理に呑み込まれるかだ、としています。このどちらにもならない道としての「神の復活」はあるのでしょうか。
10月6日【第12回】
10月スタディでは、パラグラフ147-156(邦訳書p.81-85)を中心に読み進めました。
ユングはまず、「宗教的な物事の理解には、今日では心理学的アプローチしか残っていない」とします。かつての人々が宗教の中に感じていた体験のリアリティを、神を失った現代人はなかなか理解することができません。現代においては、宗教的な体験内容を心理学的に説明することのみが宗教理解の端緒となります。ユングが行なっているのは、歴史的に定まった宗教的な思考形態を、現代人にとって直接的に体験可能なイメージへと転換する作業なのです。
生命と意味を与える最高の価値が失われてしまうことは、人間にとって典型的かつ普遍的であり、幾度も繰り返される元型的体験です。「神の死」あるいは神の消失も、こうした最高の価値が失われてしまったことを示すイメージですが、ここで失われた価値は転換させられて再び出現することになります。神を失った現代においては、ユングが便宜的に「マンダラ」と呼ぶイメージ群こそが、転換させられて再び出現した「神」のイメージに相当しています。
自然的象徴としてのマンダライメージの産出は、ユングによれば、宗教改革時代にまで遡ります。伝統的な神のイメージが揺らぐとともに、こうしたイメージが強く現れてきたことになります。
マンダラに相当するイメージの例として、ユングが歴史的資料の中から挙げたものを少し列記すると、天ではなく地の深みから生まれてくる「救い主」、物質の容器の内にある「霊」、丸き「宇宙魂」、男女の対立物の合一、四つに分割された円、賢者の石、などがあります。これらの表象が示しているのは、経験的な自我(いわゆる普通に言うところの「私」)とは同一視できないような、無意識の領域から発生する「神的な自然」たる自己の存在である、とユングは理解します。つまり、いったんは失われた神が、自分自身のうちに見出されているわけです。
「神」のイメージを失った近代人においては、神に振り向けられていた無意識の心的エネルギーが自分自身に向かうため、心理的なのぼせ上がりと人格分離の危険性が常にあります。近代人におけるマンダラの経験には、こうした危機の回避を目的とした自己統御の価値があるのです。
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図版は、トリスモジン『太陽の色彩』(1582年)からのもので、ユング『心理学と錬金術』に収録されているものです。背景には助けを求める海の王、前景には「まるきもの」と「精霊の鳩」を手にした、蘇生した海の王がいます。丸いものはマンダラ表象であり、私たち自身の内にある霊的なものをもって神が再生していることになります。現代の心理的危機に対応するようなあり方が、歴史的なシンボル表現の中にすでに現れていることにユングは注目します。
11月3日【第13回】
11月スタディでは、パラグラフ156〜166(邦訳書p.85-91)を中心に読み進めました。
ここまでマンダラについては、対立物の統一という機能に焦点が当てられていましたが、今回の箇所ではマンダラのもう一つの重要な機能である、テメノス(聖域)あるいは変容のための器という側面が語られます。
テメノス temenos とは、神聖で保護された空間を意味するギリシャ語ですが、ユング心理学においては、外からの影響を受けるのを防ぎつつ、個性化の変容を促進する場を意味します。マンダラは、このテメノスを示す典型的なイメージの一つで、錬金術において物質が化合して変化する「ヘルメスの器」のイメージとも重なります。
テメノスとしての円は、外界から内面の過程を保護・隔離しますが、現代においては人間自身や人間の魂がこのマンダラで保護されている、とユングは言います。人格神としての神のイメージを失った現代人において、無意識は神の代わりに人間についての新しいマンダラ観念を産出しています。
また、このマンダラのイメージが異教的なものに遡ることについても、ユングは指摘します。歴史的にキリスト教によって抑えられてきた、グノーシス的な思考や心理学的過程は、中世において錬金術の偽装のもとに存続していました。錬金術の意図は、カオスから原初の神的な霊を抽出し、不完全な物質を黄金や錬金薬に変容させるとともに、神的で滅びることがない体や知恵へと転換させることにあります。伝統的なキリスト教が支配的なところでは前面に出ることのなかったこの心理的側面、つまり人間自身の内部に変化のための神性を見出すことが、現代のマンダラのシンボリズムの中において現れ続行しているのです。
つまるところ、マンダラが象徴しているのは、(1)これまで肉体に隠され眠っていたものが再活性化された神的存在、あるいは、(2)その中で人間から神への転換が生起する容器・空間、ということになります。
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図版は、どれもヘルメス(メルクリウス)の表象です。ギリシア神話におけるヘルメスは交易や旅人の守り神で、その聡明さと神出鬼没さから神々の伝令神にもなっています。伝統的には右の写真のように、翼のあるサンダルを履いて、蛇が絡んだ杖のカドゥケウスを携えた姿でイメージされます。
ローマ神話ではメルクリウスと呼ばれ、錬金術では水銀、占星術では水星に相当します。矛盾に満ちた捕らえどころのない両義性ゆえに、錬金術において二重性を本質とするアルカヌム(究極の秘密)を意味しますが、この場合は中央のような異形の姿でも表象されます。左は、丸い混沌(カオス)の上に立つ、太陽と月のヘルマプロディトス(両性具有)としてのメルクリウスです。
人格の心理的変化において、ヘルメス-メルクリウスが表してきた要素は重要な意味を持ちます。ユングは「メルクリウスの霊」(1948)という論文の中で、このメルクリウスについて詳述しています。
12月1日【第14回】最終回
ほぼ一年半をかけて進めてきた「心理学と宗教」スタディですが、今回が最終回となります。今回はまず前半に、これまでの内容の振り返りをしました。以下のような論点が、ユングのこの講義では語られてきています。
・ 宗教とは、元型的観念が持っている力動的な要因とヌーメン性を、注意深く観察し、配慮を与え、敬虔に崇拝することである
・ ヨーロッパでは、カトリックの教義や儀式が、無意識の強制力を穏やかな方向づけに変化させる心理的防衛装置の役割を果たしていた。しかしプロティスタンテイズムがこれを破壊してしまったので、現代人はこれに変わるあり方を模索しなければならない。
・ 伝統的な「神」イメージを失った現代人においては、マンダラこそが、転換させられて再び出現した「神」のイメージに相当する。人間自身の内部に変化のための神性を見出すグノーシス的なあり方は、中世においては錬金術の元で存続していたが、現代において再び現れて続行している。
これら論点を改めて確認した上で、後半では、テキストの最後となるパラグラフ156〜168(邦訳書p.91-93)を中心に読み進めました。
ユングは、これまでのマンダラや神に関する議論について、地に足のつかない乱暴な形而上学的な思弁をしているのではなく、むしろ日常的に起きている経験的事実を語っていると強調します。こうしたイメージが、実際に現代人の心理に大きな影響を及ぼしている以上、それは避けて通れない現実問題であるわけです。
ユングはこの状況を、悪魔とベールゼブブ(英語版では「深海」)という対立項を比喩として使って説明します。これはどちらも悪魔的な存在ですが、前者はマンダラのシンボル、後者は神経症を指します。神を失ってしまった現代人においては、神イメージに充当されていたエネルギーが行き場を失ったことで病的になるか、あるいはそのエネルギーを新たに引き受けるマンダラのシンボルを生きていくか、その二つに一つを選ぶしか現実的な道がありません。従来のキリスト教者からすれば、この両者はともに悪魔的な道に見えるかもしれませんが、しかしそれこそが現代人が置かれている宗教的状況であるわけです。
ユングは宗教経験について、それを経験した者にとっては絶対的かつ圧倒的なものであり、誰が何を言おうとも、大いなる信仰と平和を与えてくれるものだとします。神経症を癒すものは、神経症と同じぐらいに現実的で説得力がなければならない。宗教は「非常に現実的な幻想」と言えるかもしれないが、しかしこうした助けになる信仰が単なる幻想だと言える基準はどこにあるのか。人間にとって物事が究極的にどうであるかがわからない以上、人は物事を自分を経験するがままに受け止めるしかないのではないか。
こうした自分の経験を受け止めることで、様々に満足のいく結果になるのであれば、次のように言ってかまわないだろう、「これこそ、神のお恵みだった」と。ユングはこの言葉で、この講演を締めくくっています。
もっともユングは、この講演録が全集に収録される際、最後に新たなパラグラフを一つ付け加えています。そこでユングは、「人間の魂の法則は、キリスト教の教義のシンボリズムにおける『グノーシス』を通して人間に伝えられてきた」とした上で、「キリスト教の教義を揺さぶるのは、無分別な愚か者だけであり、魂を愛する者はけっしてそのようなことはしない」と結びます。
ここには、本講演後に異端のグノーシス主義者として様々に批判をされてきたユングの、キリスト教者としての自覚がよく表れているように感じられます。現代においては心理学的アプローチこそが、キリスト教が持っている真の可能性を実現させて、キリスト教徒として生きる新たな道を拓くものなのだ、という強い信念がそこにはあります。
以上で「心理学と宗教」は終わりとなります。今から85年ほど前に行われた講演記録ですが、現代における宗教的なるもの、あるいは人間のあり方を考える上で、未だに大きな示唆のある内容であると思います。
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図版は、どちらもベールゼブブを描いたものです。右のように人格的な存在として描かれることもありますが、その名称が元々は「蝿の王」を意味していることから、左のようにハエを元にしたイメージで表象されることもあります。
左はプランシー『地獄の辞典』第6版(1863年)において追加された挿絵の一つです。この書の挿絵は、西洋の悪魔を様々にキャラクター化し、後々の悪魔のイメージに大きな影響を与えました。日本で言えば、江戸期に妖怪の形象化をした鳥山石燕の『画図百鬼夜行』や、それを受けた現代の水木しげるの著作に相当するかもしれません。
この書によれば悪魔軍団の長はサタンであるわけですが、このサタンに匹敵する力を持つ悪魔として挙げられるのが、ルシフェル、アスタロト、そしてベールゼブブの三人になります。悪魔とベールゼブブという並び立つ対比は、そうしたベールゼブブのイメージに基づくものなのでしょう。