児玉教育研究所 大橋 幹夫
[1]「ゲーテの色彩論」における色彩の全体性と根源性
1.ゲーテ「色彩論」の歴史的ポジショニング
現在でも世界には「色という概念をもっていない文化もある」という文化人類学者もいますが,たとえそうであるとしても,歴史的推移でみると,私たちがいま感じているような色彩の認識はそんなに古いものではないようです。
ギリシャ以来の二元論的形而上学では,精神こそ本質で,物質は仮象であるとの考えが長い間伝統的にありました。しかも色彩は仮象の中でも典型的な仮象とみなされていたようです。東洋でも色即是空のように色彩は仮象の代名詞として使われています。したがって,そんな色彩を独立させ色彩論として取り上げたのは,17世紀のニュートンが初めてだといわれています。
しかし,それは現在でも科学の教科書にあるようにニュートンが対象とした色彩は,科学的プリズム実験によるもので,それによると色彩とは,「もともと色がない」光線の屈折によって現れる単なる錯覚だとの考え方でした。
こうしたニュートンの実験科学による物理的事実に対して,ゲーテ(1749~1832)のほうは,生理学,心理学を含めた経験科学的方法で,経験的事実として色彩をとらえ,これがゲーテの色彩論の内容になっています。このことはゲーテがニュートンのできなかった色彩の本質(根源現象)への展開ができた理由でもあり,それがいまなお評価されている部分ではないかと思います。
ゲーテにとって「色彩現象は,自然に含まれている人間に対して,自然自体が姿を現わすあり方」であり,そこには<自然=大宇宙=神>が<人間=小宇宙=内なる神>に対応するという二世界説的考え方があるように思われます。具体的には,色彩のもつ固有の性質と相関関係により,各色彩を環状の各位置に配列することにより,独自の「色相環」を想定して,それによって自然または人間の根源現象である分極性,高進性,合一性,全体性を説明しています。
2.色彩論の内容「色相環」
実を言えば,ゲーテの色彩論(教示編)の4分の3は物理的,科学的色彩に関する記述でその大部分がニュートンの批判になっています。しかしこの勝負は現代科学ではゲーテの完敗とされています。先に掲げた独自の経験科学の分野については,専門家の間では高い評価を受けているにもかかわらず,ゲーテの色彩論があまり知られていないのはそのような背景があるからかもしれません。
色彩調和の表色系,マンセルのカラーサークルの原モデルとも思われるゲーテの「色相環」は,基本として下方に緑色,上方には赤色を配し,その両側の左下に黄色,左上には橙色,右下に青色,右上には菫色をおいています。以下それぞれについて,色彩論の中のゲーテの記述を抜粋してみました。
・色彩はプラス(黄,明,暖)とマイナス(青,暗,寒)の2つの方向に分極性=対立関係をもつ。
・プラスとマイナスの対立する色彩(黄と青)を混合すると,安定した色彩(緑)ができる。
・黄と青が赤みを帯びて濃くなる=高進すると,おのおの橙または菫の中間色を経て両側は結合=統合して色相環の最高段階で高い品位をもつ深紅色になる。
・多種多様の色彩現象をその段階に固定して並列して眺めると全体性が生じ,それは調和そのものである。一方は単純な最初から対立しているものの合一作用(緑)であり,他方は高進して対立しているものの合一作用(深紅色)である。
・色相環は,色彩の対立関係の調和と全体性を同時に表している。色相環の両端はそれぞれ要求しあう色彩を示すが,最終的に黄色と赤青色,青と赤黄色,深紅色と緑色の単純な関係に還元される。視覚器官に生まれつきそなわっている全体性への欲求は,対立する個々の色彩から全体性を作り上げることによって,自らを自由な状態にする。
・深紅色が比喩的に尊敬,緑色が象徴的に希望を表す色彩として提示されたり,色彩の多様性が表現されている色相環の図式が,根源的な諸関係を暗示させる神秘的使用に供されたりする。
・ゲーテは色彩論の終章で「黄色と青色が分離することをまずよく理解し,特に赤色へと高進することによって相対立するものが相互に接近し,第3のものにおいて結合一致することを充分に考察したならば,これら2つの分離して相対立するものに1つの精神的意義を付与できるのではないかという特殊な神秘的思想がきっと沸き起こってくるであろう。そして両者が下方に緑を,上方には赤を生み出すのをみて,下方にはエロヒムの地上の産物,上方にはエロヒムの天上の産物を思わざるをえないだろう」と述べています。
3.ゲーテの色彩論とユング
ユング(1875生)はゲーテ(1749生)の影響を多分に受けたと言われています。実際ユングの著書にはゲーテの『ファウスト』は随所に引用されていますが,10年の労作の『色彩論』にはなぜか触れられていないようです。しかしながら,色彩論にみられるゲーテの思想的基盤・重要用語を取り上げてみると,そこにはユングの思想・用語と密接な対応関系を感じます。以下ゲーテとユングとの共通性あるいは類似性について列挙してみました。
<思想的基盤の共通性>
・グノーシス主義や錬金術的思考への強い関心
・キリスト教神秘主義の考え方
・ドイツの近代的レーベン哲学の流れ
<重要用語の類似性>
ゲーテ |
ユング |
色彩の分極性 |
対立概念 |
色彩の高進性 |
個性化プロセス |
原初的合一(緑) |
ウロボロス状態 |
高進的合一(深紅色) |
自 己 |
暖色系プラスエネルギー |
意識の心的エネルギー |
寒色系マイナスエネルギー |
無意識の心的エネルギー |
色相環の多様性,全体性,根源性 |
マンダラの多様性,全体性,根源性 |
そうした共通性や類似性があるにもかかわらず,ゲーテとユングはやはり違うように思います。それは,ゲーテの下記の考え方に表れているのではないでしょうか。
ゲーテは,人間を以下の4段階に区分し段階を上がるごとに高い評価を与えています。
(1)利用する人(2)知識の人(3)直観の人(4)包括する人
前の(1)と(2)は自然科学者,後の(3)および(4)は哲学者を指すと思われます。つまりゲーテは科学者を自認してしたけれど,結局は哲学者だったと思うのです。
従ってゲーテは色彩に関して,科学者として定性的な経験科学方法により経験的事実を対象としてきましたが,彼の経験的事実には心的事実(無意識体験)が含まれないので,究極的な根源性に展開するためには,哲学者としての形而上的思惟によらざるをえなかったことが,ユングと決定的に違うところではないかと思います。
[2]「カンディンスキーの抽象画」における色彩の完全性と純粋性
1.カンディンスキーの詩集『響き』(1912)の抜粋
「一匹の魚がますます深く水の中へはいっていった。彼は銀色をしていた。水は青かった。私は眼で彼を追った。魚はますます深くはいっていった。彼はまだ見えた。彼はもう見えなくなった。しかしたとえ見ることが出来なくなっても,彼はまだ見えていた。何といおうと私は魚をみた,何といおうと私は魚をみた。私は彼をみた。私は彼をみた。私は彼をみた。私は彼をみた。私は彼をみた。私は彼をみた。
一匹の白い馬が高い脚の上に静かに立っていた。天は青かった。脚は高かった。馬は動かなかった。たてがみは下に垂れそして動かなかった。馬は動かずに高い脚の上に立っていた。しかしそれは生きていた。筋肉はちっともひきつらない,皮膚はちっとも震えない。それは生きていた。何といおうと生きていた。
広い草原に一つの花が生えた。花は青かった。それは広い草原の上のただ一つの花だった。けれどなんと言おうと彼女はそこにあった」。
2.カンディンスキーの年代別作品の傾向
(1)1866~1911 モスクワ,ミュンヘン時代:具象画と,抽象への変容のプロセス
(2)1911~1914 ミュンヘン時代:抽象画へ飛躍の時期,『芸術における精神的なもの』(1912)を
発表
(3)1922~1933 ワイマールのバウハウス時代:点・線・面の幾何学的,記号的作品
(4)1934~1944 晩年のパリ時代:バイオモルフィック抽象概念の作品
3.カンディンスキーの芸術論『芸術における精神的なもの』などの抜粋
・「一般的に言って,色彩は直接魂に影響を及ぼす力であり,魂は弦を張ったピアノである。芸術家は,あちこちの鍵盤に手を触れながら,魂の中に振動をおこすピアニストの手のようなものである」。
・「内容をもたないフォルム(フォーム,形,形式)は手ではない。それはただ空気の詰まった空っぽの手袋に過ぎない」。
・「私の根源は,セザンヌの絵画と後期のフォービスムにあり,特にマチス(1869~1954)の作品である」。
・カンディンスキーは自らの作品シリーズを,印象,即興,コンポジションの3つに分類し,「<印象>とは自然から受ける感情的衝動から離脱していない段階である。<即興>とは心の内部にある感情を無意識に表現したものである。<コンポジション>とは総合の試みであり,外的偶然性の束縛から完全に解放されたものである。そうした試みでは,芸術家は唯一,内的必然性のみを感知すればよいのだ」「内的必然性を形あるものにするには,長い練成を経なければならない。そうすることによってはじめてポリフォニーに比較しうる造形に到達することができるのだ」また即興とコンポジションという題名は音楽への暗示でもあった。芸術と音楽との類似性の中で,彼は色彩とフォルムを音響と震動とみなし五感を共感覚として捉えていた。
・「円がその最たるものであるように,幾何学的形体は,それ自身に内的な緊張をはらむものであり,また,それ自身に色彩を秘めたものである。形体と色彩との間に共感覚(△=黄,□=赤,○=青)は,これを対立的に組み換えることで,1つの形体のうちにはらまれる緊張が無言だがゆたかな表現力をもつようになる」。
4.ゲーテとカンディンスキーの色彩の内面性比較
(1)ゲーテの色相環では,赤色(深紅色)が最高段階で品位をもつ色相で,緑色は単純な合一で底辺に位置するものとし,他の色相を序列化しています。つまりゲーテは直観によりこころの深層(普遍的無意識)に内なる色彩の根源性を求め,それを中心に全色彩を体系化しました。
これに対して,カンディンスキーの内なる色彩は,形体を抽象して色彩ならびに面・線・点による幾何学模様,さらに楽譜のような記号へ単純化あるいは純粋化したもので,そこで見られるおのおのの色相は平等です。例えば赤色でもバックにつかわれてワンオブゼムの色彩にすぎません。つまりカンディンスキーの超感覚的感性によって,五感(意識)を共感覚まで単純化することにより,内なる色彩の完全性と純粋性を求めようとしているように思います。
(2)メフィストに導かれ,ギリシャ神話の世界へ回帰するファウストの詩の作者であり,哲学者でもあるゲーテは,いわゆる内向的直観あるいは思考タイプの人と言えるのではないでしょうか。光と影と闇の全体的色彩の世界から,宇宙の根源性を追求した人ではないかと思います。
一方,ロシアの裕福な家庭に生まれ,モスクワ大学の経済学・法学の先生から,30歳のときウィーンで初めて画家に転向したカンディンスキーは,その後も記録でみる限り,多くの画家が経験する不遇な時代はなく当時の前衛的な画壇の中で常に日の当たる場所を歩んできました。彼には暗い無意識の「夜の航海」は関係なかったのかもしれません。いずれにせよ鮮やかな明るい色彩に魅せられ,共感覚的世界に触れたカンディンスキーは,感性に恵まれた芸術家にみられる典型的な内向的感覚タイプの画家だったのではないだろうかと思います。影と闇を切り捨てた光に満ちた完全な世界から,色彩の純粋性を求めた人と言えると思います。